AUX LISERONS DES CHAMPS
Et, néanmoins Gallimard 2011
野の昼顔に寄す フィリップ・ジャコテ
(また?
またしても花について歩みがどうの文がこうの、花にまつわる話をこの上いくらしてみたところでおよそ同じ歩み、お定まりのフレーズだろう?
そんなことを繰り返しても仕方が無い。何しろこの花は、ごくありきたりな、地を這うように生える最も低き者たちだから、その秘密は他よりずっと判読が難しく、だがそれだけに得難く肝心なものと見た。
もう始まってしまったから、また始めるしかない。感嘆、驚き、当惑しながらも、その実、感謝もしている。)
《露もなく坂道に咲く花たち、旅人の哀れを誘うように、一つ一つ会釈するがいい、その影にも優しく、もの思わぬ頭にも優しく、然すれば彼は胸をふるわせ花の面に寄り添うであろう。何かの表徴のように、恥ずかしげに呼びかけ[…] 一年を通して存在の冠のように[…]薔薇色のサフラン の穂、絹の松虫草、先に逝った友の眼差しに似た青、セージ、九月に再び咲いたセージ、そしてブリュネル、こうして名を挙げられる花も、名もなき花も、、、》
ここ数年夏になると、花々を讃えるルーの連祷の始まりが思い浮かぶ。彼の地ジュラより少し埃っぽいとはいえ、この道を歩けば、同様にセージに縁どられ、まれにはサルビアも見かけ、しかも別のやり方で私の心に触れてくる別の花が咲いている。この愛すべき挨拶は、想像もつかないほど孤独な散歩者から、時折目につく、いわく繊細きわまりない道連れである花に送られ、その道連れもまた慰めか助言のように 彼に囁き返す。しかし、私が彼のようにそれを掴もうとしたところで叶うはずもなかった、私の中で物と言葉はうまく結びつかず、トーンも彼のように長く保つことなど出来ないし、私の息はもっと短く反立しており上手くいかない。
その上、ルーが言うように、これらの花や、以前例に挙げた鳥たちが、何かしら私に言うためにメッセージを送ろうとしているとは思えないし、私宛にしろ他の誰か宛てにしろ、そもそも一体誰がそのメッセージを託したのか知る由もなかった。
とはいえ、花が無意識の言語を表すと言ってみたい気持ちもあったかもしれない、背後から花にそれを吹き込む何者も無く、内的な状態、一種起源のような所から来る私へのよびかけのようだと。まるで初めての花園に、有りのまま咲き得たかのような花たち。
そんな試みは、ちょうど学校の教師が、相当できの悪い子供に何か複雑で秘密めいた観念的な事を理解させるために、自分の言葉にあれこれ散りばめるような具合になったかもしれない。(《野の百合を見なさい、働く事も紡ぐこともしない、、、》ーーしかし、私の花は、全く別の教えのために、花開いてくれたのだった。)
空の光に向かい、うち開くもの、これら地を這う花、陽が昇れば消え行く影さながらに。
野の昼顔、暁が足元に撒く、ひそやかな知らせ。
地面すれすれで、オーブ(よあけ)と言っている子供の口のような。
それを、足元に置かれたつましい盃とするなら、それで何を飲もうか?
薔薇色の昼顔 (おそらく《働くことも紡ぐこともない野の百合・聖書》とはこの花)
挨拶ができなくなる前、おいおい冷たくなる水の方へ流されてしまう前に挨拶をしよう。
挨拶ができなくなる前、おいおい冷たくなる水の方へ流されてしまう前に挨拶をしよう。
死の影が、冷たい雲のように花の上にさしかかる前に。
要なく価値なく力もない物。
それでも、これほど身近で、存在感を持つ花があっただろうか、きっとそれは、今にも終わりが来そうだという (差し迫った終わりへの)不安のせいかもしれない、夜になる寸前に、光が一際輝くように見えることがあるように。
この身近な花は、駆け巡る道行の終わりを忘れさせるが、やがて散歩者は、自分の歩き慣れた家路でさえ、否応無しに、全ての家から可能な限り遠い場所へと導くものだと、知るに至る。
全て、自ら開く花という花は私の目を開かせるようだ。思いもかけず。花にしろ私にしろ、一切意識的な行為なしに。
花は開く、自らをはるかに超える別の何かを開きながら。あなたが思わず立ち止まり嬉しい気持ちになるのは、それを予感するからだ。
そして、これからあなたはひと時、恐れる者、信じる者、あるいは知らないふりをする者となって震えることがあるだろう。?
薔薇色の昼顔、そして未だ聞いたことのない純粋な言葉、道すがら、訳し難い言語を聞く(もともと言葉でもなければ人の口でもないが)。
それでもなお、信じたくなる、歩きながら耳にした、不意を打つような声を、そしてもしその源を探ろうものなら、たちどころに消えてしまうとしても。
ヘルダーリンは、その詩「ライン」の中で河のことを思い「湧き出づるもの」は「エニグム・謎」であると記している。それが正にこの花にも当てはまる。その輝きは理解し難く見たこともないほど生き生きとしている。
結局もうこれ以上どうにも言い様がないわけだ。しかし続けて行こう。
謎が少なければ、光も弱い。
ヘルダーリンの言う「湧き出づるもの」とは彼の源たるライン河であり、それは起源であると共に、東方に起ち上がる夜明ともなりうる。
クローデルに言わせれば泉とは「pur seul 完璧な独自性、源であり今ここにほとばしるもの。」
超えることのできない、無声の、ぎりぎりの場所で、神なる者の夢が生み出され
開花する。
常に地すれすれの泉、これほど身近な、そして遥か彼方の。
他事を思っているか何も頭にない、通りがかりの者に与えられた、これら花々は、かくも非象徴的であればこそ、彼にある種、目に見えない「移動」をさせ、彼の気づかぬうちに空間を変える。決して非現実や夢に陥るわけでなく、むしろ、扉も道もない入り口を通ったとでも言うべきか。
そして、もしそこに花の「内部」と言うものがあるとしたら、私たちの何を以ってすれば、花と一致できるような内部と言うことが出来るのだろうか?
花々は離れ去り、かくして我々は遠ざけられる。野に置かれた夥しい数の鍵に。
花を見れば、見るなり立ち所に、視覚するよりも遠くが見える (是が非でも) ということになるかもしれない?
儚い花の狭間から。
ぐっと背の曲がった男が土さえ本として読むようなものだ。
最後の読書か。
※ この写真は昼顔ではありません。
地面から口を開けているように見えました。(訳者撮影)
地に開く 昼顔の白 時忘れ
地に開く 昼顔の白 時忘れ