2013年6月15日土曜日

Jules Supervielle シュペルヴィエルのお話 

         空の二人  

                        ジュール・シュペルヴィエル 

 かつては地上に暮らしていた人間の影たちが、天の広大な空間に勢ぞろいしている。ちょうど生者が地面を歩くように空中を歩く。先史時代を生きた男が言った。
「そうだな、雨風をしのぐ天の洞窟が必要だ。それから火打ち石・・・だがなんとも情けない、おれの回りには固い物なんて一つもない。ここにいるのは亡霊たちと、どこまでも続く空っぽだけだ。」
 現代人であった父親は、鍵穴に注意深く鍵を差し込み、暗い顔つきで入念に扉を閉めた。
「さあ、家に帰ったぞ。今日も一日ご苦労様。夕食をいただいて、ぐっすり眠るとするか。」
翌朝、彼は夜の間に生えたはずのヒゲを、霞のブラシで丁寧に洗った。
 何もかもが影なのだ。洞窟も家も扉も、一時は赤ら顔であったブルジョア気取りの面々も、みんな今では身体を失ったどんよりした影に過ぎず、人々の幻影や、街、河、大陸の追憶を、ただ思い出すばかりだった。というのも、この高みでは、今なお空中ヨーロッパを見ることができた。フランス全土も隅々に至るまで、コタンタンとブルターニュ、分かたれることを望まなかった半島も、そしてノルウェーとそのフィヨルドの最後の一つまで。
 地上で成されることの全てが、名もない小道の敷石一つを取り替えたことさえ、この空のここに映し出される。ほら、あらゆる時代の車たちの魂が走って行く。怠け者の王様の馬車、人力車、小さいトラック、普通列車、担ぎ椅子。そして歩くことしか知らなかった者はひたすら自分の足を使っている。
 電気という物を未だに信じられない者もいて、他の影が、すぐにも分かってもらおうと、架空のスイッチをひねる。これでよく見えるだろう。
 時折、 この星間空間で、唯一聞こえる声がする。いったいどこから聞こるのやら、一人一人の、かつては耳の穴であった所に語りかけてくる。
「よくよく言っておきます。あなたたちは影法師でしかないことを忘れないように。」
しかし誰にもその言葉の意味が知れず、数秒の語りかけも終わってしまえば何も言わなかったのと同じだった。影たちは、ここでもまた、自分たちの考えのまま行動すればいいと信じていた。
 言葉の失われた暮らしだった。囁きさえしない。
 ただ、魂は、こんなにも透明なのだから、会話は話し相手の前に立つだけで事足りる。
例えば、 幼い子の前で、彼がまるで危険な目にあったかのように思い描けば、それだけで、傍らにいる母親はびっくりする。「気をつけて!ころんで死んでしまうわ!」あるいは、人のすぐ側で「昨日、仲間が膝を血だらけにしてやってきたんだ。」 と考えるだけで分かる。
 人に見抜かれてしまう心を隠すには、一目散に走って行って一人になるしかないが、そんなことは、とても無理だ。それでも、ほとんどの者が秘密など思い浮かべることなく、まことにきちんと礼儀正しく自分を表現する習慣を身につけていた。
 見たところ、誰もがずっと同じ年頃のままでいる。それでも親は、そんなことはお構いなしに、将来は何をするつもりなのかと尋ねたり、子供が大きくなったことを何度でも確かめる。親の喜びというものだ。わからないのは、抱き合っている若者たちが、何とも無関心な様子でいることだった。目の不自由だった者も、ここでは皆と同じように見えている。それで、何かを避けようと頭を後ろに持って行く。ところが、ここにはよける物など何もない。
 一方、地上で大恋愛をしたことのある者は、しょっちゅう行く道を変えて、心ときめく巡り会いを願っていた。(後に登場するシャルル・デルソルのこと)
 時折、世間の苦しみをそれほど味わうことなくこちらへやって来たばかりの者たちが、心をかきむしられ、その、ぴくぴく動く灰色の塊を足下に投げつけては長いこと見つめ、地団駄を踏んでいる。しばらくすると、控えめで変わることのないその心は、地上を離れた男の胸の内に、穏やかに居場所を取りもどす。苦しむことも泣くこともここではままならない。
 新人たちを慰めたい。彼らは、どのように影をやっていけばいいのだろう、 一歩も前に踏み出せない。手を挙げて助けを呼ぶこともできず、かといって足を組んでじっとしているわけにもいかない。走ることも、弾みをつけて、あるいは力なく飛ぶこともできない。どれもこれも先輩たちには難なくこなせることなのに、それで、始終あたりを見回しては、財布をなくした人のように、考え込んでいる。
「大丈夫、そのうちなんとかなるさ。」先輩はそう言って慰める。
 いつの日か終わりが来る。
 「悲しむことはないよ、それよりもっとずっと辛いことが、いくらでもあったじゃないか。」そう言って地上を指さす。目にこそ見えないが、この瞬間きっとそこに在るに違いない地上。ほんの幼い、生まれて間もない子供たちでさえ、真夜中にハッと目覚めさせて問うたとしても、それがどこにあるか、ちゃんと知っていた。
 ここでは、耳をそばだてても何の音もしない。男の人も女の人も、灰色の唇を、まるでゆりかごをのぞき込むように見つめながら、そこから終に一声が生まれ出てくるのを、今か今かと待ち望んでいる!
 誰彼の家に集まっては、弦なしのチェロが奏でる、お決まりの曲を聴くこともある。めいめいの空想に任せていれば、室内カルテットなり、一大パイプオルガンなり、フルートのソロや、松林の風音が、土砂降りの雨をくぐり抜けて聞こえて来るのだった。
 ある日、往年の名ピアニストが、幻のピアノに向かう演奏を振る舞おうと、友人たちを招いた。それはバッハに違いない。演奏も作曲も天才的だ。聴かせてくれるだろう。招待客は期待に胸躍らせた。中には彼をバッハだと思った者もいる。正にバッハそのものだった。彼はトッカータとフーガを弾いた。影たちは芸術家の調べに酔いしれ、誰もが本当に聴いたと信じた。曲の終わりに、割れんばかりの拍手がわき起こったが、何の音もしなかった。やはり奇跡は起こらない。みんなそそくさと家に帰って行った。
 とは言え、影たちが最も辛く感じているのは、物をその手につかみ取れないことだった。見渡せば全ての物がただ夢のようにそこにある。せめて自分の爪の先、一本の髪の毛、パンのかけら、何でもいい、どれなら手応えがあるのだろう。
 またある日、散歩好きたちが、いつものように広場をうろうろしていると、長い箱があった。本当に木でできていて真っ白だ。 影たちは願いが強すぎる余り、だまされてばかりいたので、事の重大さに思い至らず、どうせこれも錯覚だとか、これはいつもより良くできた偽物に違いないと思った。ところが驚いたことに、利発で通っている荷造り職人が、これは本物の白木で、地上にある木と寸分違わないと言って、疑り深い者たち一人一人に向き合っては、断言した。
 さあ大変、時代を超えての、ものすごい人だかりだ!ゴート族、山羊、狼、西ゴート族、フン族、プロテスタント、ジャコウネズミ、狐、小ガモ、カトリック、ローマ人、博識家、可愛い子、あらゆるロマンチックとクラシックのごちゃ混ぜ。ピューマ、鷲、てんとう虫までいる。 その箱の回りを、折り重なるように、固唾をのんで取り囲み、今にもくずれんばかり・・・
 「変わる、何かが変わろうとしている!たいへんなことになるぞ!本物の白い木があったと言うことは、太陽だってにわかに輝き始めるかもしれない。そうしてここの、どこから来るとも知れない惨めな光に、きっぱりと取って代わる。ここの光はいつも代わり映えしない、本当は夜なんだか昼なんだか。何にしても空の掃きだめみたいな光だ。ここの空は、そうさ、時には鳥だって上手く飛び込んできたりもする。しかしよーく見てみろ、息も絶え絶えだ。鳥は空っぽの中でじっとしているしかない。いつまでもそうしていると羽毛が塊になって抜け落ちていく。永遠の中を落ちていく。」
 誰一人、箱のふたを開けられず、幾千もの影が見張りに就くと申し出た。何とかしようと、あるいは恐れから、あるいはもっともらしく・・・。仮説はどれも怪しいもので、空のサハラ砂漠を流れるエーテルのせせらぎのように消えていった。
「落ち着くんだ。ばかげた幻覚に捕らわれてどうする。」地上で歳をとってからこっちへ来た者たちは言った。「ただの箱ではないか。どうせ中身は空っぽだ。」
 しかし、希望は希望でそのまま続いた。どこからか一人の影がやってきて、来週の月曜日に(月曜とは言うものの、それがほんとうに月曜なのかどうかはしばしば大議論になるのだが)雄牛が現れてみんなの前で草を食べて見せるだろう、たぶんその光景の終わり頃には鳴き声まで聞こえるに違いない、と言うのだ。
「きれいな黒毛だろうなあ、少し白い斑のある。」
「僕が見たいのは、むしろアングロ・アラブの馬だ。目の前を早足で駆ける。ほんの5分。それさえ見れば、その後ずっと何世紀の間でも幸せでいられるよ。」
「僕は、田舎を気ままにうろつく狐君がいいなあ。セーヌ・エ・マルヌの田園を僕と二人で。」
「ああ、君と二人で?」
影たちが近々、地上にいた頃の身体を取りもどすという噂で持ちきりだ。色も元通り、体重も正確に。
「ねえ。近いうちに私がオフィスに通う姿が見られるわ。シャトレー駅の階段を下りていくのよ。」
「その日、僕は走ってる。ご親切にも駅長の笛が遅れたせいで、僕はリスボン行きの列車を乗り過ごしてしまうんだ。」
 友人を招いて、互いに確かめ合うこともできるだろう。結婚式の日のこと。父の死を告げる電報が届けられた日や、そういった人生の、また別の日のことを。
「ううん、やっぱり、信じろと言うのはむりだよ。」
「どうしてだ?どれもこれも、いかにも在りそうなことじゃないか。物事は十把一絡げにはできないよ。ここは一つ、よーく考えてごらん。」
「みんな、あの不吉な白木の箱のせいだ。」
「あきれたもんだ。考えてもごらんよ。これまでずっと、数え切れない影たちが、ちゃんとした身体を持たずにいるんだよ。」
 ともかく、他の奇跡はもう何も起こらず、箱は広場に置かれたまま、月日だけが過ぎていくにつれ、箱を取り巻く見張りの数も減っていった。そして終には箱だけが、ぽつり残された。
 ちょっとした夢を見ていただけに、失望も大きかった。影たちはこのおぞましいほどの落胆ぶりを隠すため、お互いを避け合うようになった。実際、これほどまで自分の空しさに苦しんだことがあっただろうか。とにかく一人になりたくて、兄は弟を、夫は妻を、あるいは友人を避けた。

 シャルル・デルソルには、見当もつかなかった。いったいどのくらいの間、こうして死んで、本来の意味での自分の影となっているのやら。 彼は、死の数日前から、マルグリット・デルノードの姿を見ていない。彼女はまだ生きているだろうか?ソルボンヌの図書館で彼女を初めて見た日のことならちゃんと覚えている。真ん前に座っていた。ちらっと見ただけで、ブルネットの娘とわかった。15分ほど机に向かい(彼は哲学を学んでいた)もう一度目をやって、彼女の目の色をしっかり見た。10分勉強してから最後に両手首と手を確かめた。 そうして面影を追いながら、とぎれとぎれのひとつひとつを、彼女の全体として生身の姿によせ集めた。
 毎日彼女の正面に席を取ったものの、決して話しかけなかった。身体の劣等感が彼をとても臆病にしていた。彼はいつも、何が何でも真っ先に急いで帰ってしまった。ある時、彼女が本を探しに席を立つと、彼と同じリズムで歩いた。「ああ、僕と同じだ。これで勇気が出そうだ。」シャルル・デルソルは、思わず独り言を言い。言ってしまってから、そんな考えは自分にも彼女にも心外のような気がした。よけいに、声をかけづらくなってしまったじゃないか。
 マルグリットは、自分に注がれる、この無言の眼差しにいらいらした。そこへこの身体的共通点のやりとりがあって、何か誘われているように感じた。
 三月のある日、彼女が大きく窓を開け放っていると、誰かがデルソルに隣から小さな声で話しかけた。
「寒いのなら、窓を閉めて下さいって頼めばいいよ。病み上がりなんだから当然さ。」
「いや、僕は息が詰まりそうなんだ。それだけだ。」そう言ってデルソルは動こうとしなかった。
 それでも彼は寒さに抵抗し、残された力で温もりを逃すまいと、目には見えないわずかな動きで、肩や足の筋肉をふるわせたり、ベストの下に手を入れて胸をこすったりしていた。けれども女子学生は、勉強を邪魔しないで、とでも言うように彼に向かって眼を上げた。
その時彼は、押し黙ったままで、死を感じとっていた。たとえ彼の肩を、胸を、あるいは足をさすりながら、しっかりしろ大丈夫だよと言って聞かせたとしても。そして三日後に、彼は亡くなった。
 この高みへ来てから、デルソルは空中に映し出されたソルボンヌ図書館で勉強を続けていた。
ある日のこと彼のいつもの席の正面に女の影法師が座っていた。それはまさにデルノードのシルエットではないか。
「カバンの持ち方も開け方も、ちょっとぶっきらぼうで変わってない。でも、顔はどうだろう?パリと同じケープを羽織っている。でも地上にいた時ほどこっちが気にならないみたいだ。あれ?どうして窓をあけないのかな?」
透明な魂にとって、思いは全て相手にお見通しであることを、彼は忘れていた。灰色の女の子は近づいてきて影の無言の言葉でこう言った。
「あの、教えて下さい。私が窓を閉めなかったからではありませんか?あの日・・・」
「えっ?違うよ。僕はタクシーにひかれたんだ。」思いを隠すため彼はあわててその場を離れた。
幾日かたつと、二人は連れだって図書館から出てきた。
「お二人さんを見てごらん、まるで恋人同士だよ。思いを一つにするには、同じリズムで歩かなきゃ。ここではそれが役に立つみたいだ。」
空で持つ、彼女の大きなカバンは一番軽い鳥の羽よりなお軽いに決まっているというのに、デルソルは持ってあげるよと言い出した。彼女は笑って、それでも丁重に断った。それが、とうとう、何か滑稽なことだと思いながら彼に持ってほしくなってしまった。なんと言っても、死んでしばらくたつ学生として、それなりの経験を積んでいるはずなのに。
ところが、彼がカバンを手にするとすぐ腕に重さを感じた。そして自分の手が以前のように自分のものであるという感じがしてきた。自分の両手であった所に充足感のような物が漲ってきた。シャルル・デルソルの身体は、なお灰色とは言え赤味を帯び、光沢があって輝くばかりだ。マルグリット・デルノードは思った。
「今日はなんだかちょっと変よ。いつもと感じが違うわ。加減が悪いんじゃないの?」
「冗談だろう。影にそんなことはありえない。」
逆らうように動かすと、手首に強い痛みを感じて、おっと、カバンが手からすべり落ち、本物のキシャラとゲルゼのラテン語辞典が、その重さとページといっしょに飛び出した。
動転して色を失い、女子学生は地上の娘と同じ本物のまつげをパチパチさせた。しかもかつての青い目をしている。顔や他の部分はまだ生気がない。彼女は超人的な力を出した後のようにじっと動かずにいた。するとたちまち、ほら、鼻がここに、唇も、頬も「地上」にいた時よりさらにピンク色に染まった。影なのに裸じゃない。ちゃんと1919年の娘にふさわしい服装だ。
空気は乾いて少し重い。若者と、あでやかな娘の顔から美しい霧の柱が立ち上る。
二人は、あたりの影たちには目もくれず、取りもどした唇を、ずっと重ねていた。それから、新しい喜びのあふれる力に導かれ広場へ向かった。そこには白い木箱が置かれていた。箱は難なく開いた。今では元どおり、かつての力が備わっている二人の手で、ただ持ち上げるだけだ。そこには彼らが地上で持っていたたくさんのものが入っていた。中でも空の絵葉書だ。みごとに明るく澄んで色とりどりに、生き生きとして二人を励ます。

今、二人のまなざしが注がれている場所へ、さあ、思い切って行きなさいといざなうように。

投稿者訳  L'enfant de la haute mer p.83
                 "Les boiteux du ciel"  folio252